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18.08.06

本日は定休日です。

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富木島寿司は郷土を愛し、郷土に愛される店づくりを目指しています。

東海市の偉人”良忍上人”

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宗祖良忍上人のプロフィール
 良忍上人(聖應大師)は、延久四年(1072)尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍と改名したのは大原へ隠棲して後のことです。
 比叡山での良忍上人は堂僧(堂守り)として修業する傍ら、天台の学問はもとより密教や戒律の修法にも努めました。二十一歳ですでに多くの学侶(学問をする修行僧)を教導する講主の職に任ぜられることになります。しかし学問の議論ばかりが先走り、真に道を求める心が薄れていることを嘆いていた良忍上人には当時の比叡山は決して修行に適した環境ではなくなっていました。伝教大師が強調された道心がゆるんでいたのです。また時代は貴族社会に変わって武家政権に移行する動乱期にさしかかっていました。一大仏教拠点たる比叡山にも時代変革に伴う世俗化の波が押し寄せていたのです。そうした中にあって心ある修行僧は本来の仏道を求めて別の地に移り棲むことがよく行われました。

大原隠棲のこと
 二十三歳にして良忍上人は洛北大原に隠棲されることになります。大原は比叡山の別所として、念仏聖や修行者が草庵を結んで一つの集落を形成していたところです。
 大原での良忍上人は、世俗の営みを断ち偏に往生を願う純心な念仏行者であったこと、一切経を披閲し堂舎、仏像を造立し多年修練したこと、一日六万遍の念仏を称えるかたわら、法華経書写に励んだこと、睡眠時間をきりつめ、手足の指を燃やして仏と経に供養したこと等が最も古い資料とされる「後拾遺往生伝」「三外往生記」等に見え、真摯な念仏行者であり、法華経の修行僧であったことが窺えます。また「一切経を披閲し」とあるのは、大原来迎院に「如来蔵」という書庫を建て、仏教の典籍に親しまれたことを指しています。
 かくて上人四十六歳の永久五年(1117)五月十五日 午の刻(正午)一心に念仏を称えている中に阿弥陀仏が面り相好(お姿)を現じ、速疾往生といって、後の世を待たずに、現世にだれもが速やかに智慧かがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として融通念仏の法門を授与されました。その授与された御文を「弥陀の妙偈」といい、融通念佛宗の教えの要となるものです。
 

「一人一切人 一切人一人」

「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」
告げ終わって更に大光明を放って、白い絹一枚を上人に授与されました。そこには今しがた空中にお姿を現された仏、菩薩の尊像が描かれていました。中央に阿弥陀如来が立ち、その周囲を十体の菩薩がとりかこむお姿で、ご本尊「十一尊天得如来」であります。

 

融通念仏とは

 融通とは溶け合い和合することです。
砂とセメントと水は、それぞれその形も働きも異なりますが、この三者が溶け合って和合すると強固なコンクリートになるのも融通です。
 融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。すなわち念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合の世界を自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にすることをめざした教えです。

 

念仏のすすめ

 融通のはたらきの中では、一人の念仏は小さくとも、同時に一切の人に功徳を分かち、一切の人の念仏が一人の上に注がれてくる。念仏こそすべての善行の根本であり、すべての善行は念仏の中に摂(おさ)まってきますから本宗の信徒は毎朝十遍の念仏と、日課念仏百遍を称えることが大切なつとめとなっています。

富木島寿司はこれからもここ東海市で、美味しい料理とあたたかいおもてなしで皆様のしあわせに貢献してまいります。